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本能寺の変に黒幕はいたのか? “証拠”をもとに事件を捜査する

あの歴史的事件の犯人を追う! 歴史警察 第1回

■事件に黒幕が・・・

 光秀が野望や怨恨によって単独で本能寺の変を起こしたと考えにくいことから、実は光秀は従犯に過ぎず、主犯が黒幕として存在していたという見解もある。黒幕とされるのは、朝廷、イエズス会、足利義昭、豊臣秀吉など、多岐にわたっている。本当に、黒幕でありえたのか、ひとつひとつ確認していこう。

 

1、朝廷
 信長と朝廷が対立していたとの評価から、朝廷が黒幕だったという見方である。しかしながら、本能寺の変に際しては、正親町天皇の皇子である誠仁親王が信忠が宿泊していた妙覚寺に隣接する二条御所におり、あわや巻き込まれるところであった。朝廷サイドで事件を知っていたら、そんな危険な橋はわたらなかったろう。それに、光秀が天皇から命令されていたのだとしたら、錦の御旗を立てていたにちがいない。そもそも、朝廷と信長が対立していたという話も、事実ではないとみられている。光秀と個人的に親しくする公家はいたにせよ、朝廷として信長の殺害を命じていたとは考えにくい。

2、イエズス会
 イエズス会は、資金を提供していた信長が自らを神格化したため、殺害に及んだという。ただし、イエズス会が関与した形跡はなく、本能寺の変後、窮地に陥った光秀を支援してもいない。たしかに、晩年の信長はイエズス会との対立も生じていたが、イエズス会は信長の許可を得て布教をしていたのであり、政治的な混乱は望むところではなかったろう。

3、足利義昭
 天正元年(1573)に畿内から追放された足利義昭であるが、実のところ、将軍職を解任されていたわけではなかった。このころは、毛利輝元の支援により、備後の鞆に滞在していたが、信長の死を聞いた義昭は、毛利方に対して「信長討ち果たす上は、入洛の儀、急度馳走すべき由」などと書き送っている。すぐに畿内へ戻り、幕府を再興するつもりであったようである。ここで義昭は、信長を討ち果たしたと述べているが、もちろん、義昭が手を下したわけではない。義昭自身も、事件に関与していたわけではないだろう。もし義昭が光秀に実行を命じたのであれば、毛利氏と秀吉との和睦も中止させたはずである。

4、豊臣秀吉
 本能寺の変で、もっとも得をしたのは、豊臣秀吉である。このとき、備中国の高松城で毛利勢と対峙していた秀吉は、信長の死を知るやいなや、毛利サイドと和睦し、すぐさま畿内に引き返し、山崎の戦いで光秀を破った。そして、織田家中の勢力争いを制して、信長の後継者となったのは、周知の事実である。ただ、これは結果論であり、信長の死を知った毛利サイドに追撃されるおそれもあったわけである。秀吉が天下人になれたのは、その後の立ち回りが上手であったためであり、光秀をそそのかしたとは考えにくい。そもそも、光秀は秀吉のライバルだった。

■光秀の単独犯行

 以上みてきたように、結局のところ、光秀の背後に黒幕がいたとは考えにくい。個人的な野望も怨恨も理由でないとしたら、いったい何のために光秀は行動をおこしたのか。光秀自身は、本能寺の変直後に書いた書状において「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」(『武家事紀』)と述べており、「悪虐」をなす信長と信忠を討ち果たしたことを大義名分としている。もちろん、これは大義名分にすぎないが、それが光秀の本心でもあったのではないだろうか。具体的になにを「悪虐」と考えていたのかはわからないが、朝廷関係でないとすると、足利義昭の追放しか考えられない。ただし、信長の家臣らは、そうしたことを「悪虐」とは考えていなかったのだろう。結局、光秀のもとに信長の遺臣が参集することはほとんどなかったのである。
 ここでは、本能寺の変は光秀の単独犯行とし、その理由は、追放された義昭の意向を忖度したものとみたい。光秀は、畿内を征圧したあとは、義昭を呼び戻して室町幕府を再興し、自ら幕府の実権を握ろうとしていたのではあるまいか。

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小和田 泰経

おわだ やすつね

1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)、『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』、『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(ともに新紀元社)他。


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